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「先憂後楽」の思いを書き遺す
「先憂後楽」という四字熟語があります。
75歳を過ぎた今、後楽というものを味わう域に入り、それを少なからず体験しておかねば、私の人生の帳尻が合わないのでは?と考えたりしています。
というわけで今年のGWは、相変わらず出社もしましたが、前橋に墓参、後半のお天気のよい日は新緑の近場の散策、そして本屋に寄るなどで終わりました。
これは不満を申しているのではなく、反面幸せだと思っております。それは、なんといっても体が自由に動くからできたことです。 ここ数年は、病を得て、しばしベッドに縛られていた身としてはそう思わざるを得ません。これこそ身をもって知る反面教師と云うことなのです。
これまでの私は終始「仕事・事業・経営」からの発想で生きてきました。そのための著作も数冊上梓することができました。そんな出版作業のなか、心が感応したのは仕事・事業・経営は私たち人間の「営為」(人間が日々営む仕事や生活)であり、その根底には人間性が現れる行為がある、ということです。
仕事は、よくも悪くも相手という人間の行為に影響されるものです。故に、ことに当たる際「人間を学ぶ」観点を持つと、感じるものが何かあるのです。
そういった日頃自身が感じた思いを雑記として書き留めてきたものを、整理し、いつかひとつの形にしたいとの心づもりでした。
つらつら考えてみると、私自身の性格・生き方はじつに直線的でした。思いつき、計画したことは、何としても早めに処理したいとの思いが先行し、行動してきました。
心身を休める、安逸を求めることの大切さは理解していたつもりですが、それでも心が休まるようなことに身を任せるのが不得手でした。遣り残しや、日延するなど、妥協する自分が許せないのです。そんな私が、「曖昧模糊」のままにしておく何かがあるのは、自分らしくないとの思いを強くしたことがあります。
また、人生の「のりシロ」を意識しつつある今日、なにを優先して日々を過ごそうか考えてみました。そして、今回、人として生きてきた途で、即ち、身を持って感じたその都度、書き留めておいたことがらを纏めることにしたのです。
気が付くと、これまでの歳月は月並みですが、あっという間だったような気がいたしております。古希を過ぎた私が自ら感じた、それも個人的なことがらのみを、今回は纏めてみようとしております。
テーマは「人生・心のあり方」。長年歩み続けてきた山あり、谷あり、けして平坦ではない途のりを生きてきたなかで身をもって学ばされたことがらです。 2017年7月にこれも同じ気持ちで句集「十年一節」を上梓いたしました。その巻頭に「生きる道 ひとつ一つの こころから」との句を掲げました。これまでの歳月「心のあり方」を手探りし、それを確かめて生きて来た日々でした。心を込めて整理して進みたいと思っております。